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■ニューヨーク食べ歩き■
by Kozue Endo in New York, 5.20.2000
私は今一葉の写真を見ながらこのレポートを書いている。写真の中の私は大きなシカゴ ピザの一切れを手に、ニッコリしている。その顔は、「ハイ、チーズ!」用のニッコリと、食べ物を前にして「嬉しい!」というニッコリと、「ちょ、ちょっと見てよ、これ!こんなの食べちゃうのよ。」と、困惑ぎみのニッコリになっている。私にとってのシカゴの食べ物はまさに、このタイプのニッコリの連続なのであった。そして、そんなニッコリしている間に私は急速にシカゴとの恋に落ちていったのだ。
さて、シカゴピザ。直系60センチ弱で、メニュー上では3人から4人分となっている。だったらちょっと小さ目?なんていうのは甘い。シカゴピザの特徴である高さが7センチくらいある。イタリアなどで見かけるパイ生地を広げて、さらに広げてるため空中に放り上げて大きくするというのではく、パイ生地で大きなボウルをつくり、その中に注ぎ込むようにして、チーズやらマッシュルーム(具
は自分で選べる)を入れ、トマトソースをかけ、じっくりふんわり焼き上げたのが「シカゴピザ」である。キッシュ(Knish)をご存知の方は、キッシュのホールにトマトソースが注ぎ込まれてた形と想像していただけるとわかりやすいであろう。遠目からみると、ケーキのようでもある。私は、その見た目が大きすぎたので、一瞬食欲が遠のいてしまったが、一口食べると意外にも味はあっさりめ。まず、トマトソースがすっきりしている。何時間もトマトだけを煮込んだという味がしており、それが中の具の本来の味をいかすことになり、さっぱりとしたパイ生地も協力して全体的に美味しい。(ちょっと料理番組的解説)お寿司を食べている時、おなかがいっぱいになってくるとネタだけ食べたくなったりする私ではあるが、このシカゴピザの場合は、そんな状況であっても具にはそんなに魅力
的はない。全体的に味わわなければ美味しくないのである。ということで、大きさのすごさは別にしても、料理としての完成度は高いのではないかと私は評価する。さらに、もし、一人でこのシカゴピザを食べたくなっても心配する必要はない。一人分として、直系15センチ程のお手軽サイズが存在することを私の連れが目撃している。
すごいピザだったなぁ…なんて感動していると、「シカゴは食い倒れの街」であるという情報が入ってきた。実は、私はなにも下調べをせずにシカゴを訪れてしまっていたため、こういうガイドブック的な情報はありがたい。さらに調べてみると、その「食い倒れ」を共通項として、日本の大阪市と姉妹都市になっているというではないか。(他にも商業都市としての共通項もあるらしい。)じゃ、ま
すます食べていかなきゃ!ということで、私は本来の訪シカゴの目的そっちのけで、食べ歩きに専念したのであった。
次にいったのは「スペアリブ」。私はNYにいる間に、スペアリブにはあまり恵まれず、「あんまり美味しいものではない」という認識をしてしまった。硬くて、食べにくくて、手も口の周りがべたべたになるし、味もおおざっぱ、というのが、私のスペアリブに対する先入観である。だから、名物がピザの次にスペアリブと聞いた時には、ちょっとがっかりもしたけれども、ついさっき食べ歩きをすると決意したばかりであったので挑戦してみる事にした。すると、まさに「認識を覆される」体験をする。柔らかくて、ナイフとフォークで簡単に骨と肉を取り分ける事ができる。マナーの本で手を使って食べる時は主人がそう言ってからとかなんとか…。そんな必要はない。アメリカのお肉は柔らかいものもあったのね。と感動してしまう。そして、なんといってもソースが美味しく、肉との相性がよい。よく日本では焼き肉や焼き鳥のたれとか、お好み焼きのソースとか秘伝と称して何年もかけてつくっているが、このソースはその奥深さに匹敵するかもしれない。それくらい複雑でいて後に残る味がする。ソースということを考えたとき、私はふときっと普段A1(エイワン)ソースで満足しているシカゴアン(シカゴ人をこう呼ぶらしい)はいないだろうということを思った。ピザといい、リブといい、適度に廉価であり、普段気軽に食べられるものに関してここまで発達を遂げているのはある種のシカゴ文化であるといってもよい。すべてを日本に置き換えるのは少々恐縮であるが、話をわかりやすくするために、あえてさせていただくと、A1ソースは日本でいうブルドックソースとしてみよう。ブルドックソースはいつでも、どこでも、なんにでも、いちおう対応できるようになっている。が、大阪では聞くところによると、お好み焼きには「おたふくソース」でなければ!という人がかなりの人数でいるらしいではないか。東京でおたふくソースにこだわる人の話はそんなに聞かない、との自分勝手なリサーチにより、シカゴアンによるソースへの愛着度合いは、大阪人のおたふくソースへの愛着と重なるところがあるに違いないとの結論を導くことにする。そんなことを話ながら味わっていると、「Baby
back rib」という名にしては大きすぎる皿を仲 間とぺろりと平らげてしまった。(註:ここでは説明していないが、これまた、困惑のニッコリをしてしまう程の大きさの皿であった。)
このあたりで、私はすでにシカゴとの恋に落ちてしまったというべきであろう。私は美味しいものが食べられる街に弱い。旅行の第一条件には必ず「美味しいものがあるところ」としている。イタリアに行った時には、半島ごと食べないと満足しないのではないだろうかと自分でも思うほど、食欲200%で旅立ったのである。そんな私であるから、このレポートはかなりシカゴへの愛に満ちたものになっているにちがいない。
そんなお腹いっぱい、胸いっぱいな状態で、さらに三大名物の最後、ポップコーンへと私は向かった。なんでいまさらポップコーン?と、ちょっと情けなくなる。そんなん、映画館でバケツで買えるのに…。これは、好きになってしまった者の弱みである。好きになってしまった以上、情けなくとも進まなければ気が納まらないのだ。と、ちょっとトボトボ歩いていると、何やら長い列が見えてき
た。行列なんてシカゴで見た事がない。「え?もしかしたら?」はやる気持ちを押さえて駆けつけると、なんとポップコーン屋である。それも、10畳ほどの大きさのお店なので、店には入りきらず外に20人は待っている。私の行ったあたりは、フェラガモやら、ティファニーやらがあるちょっと高級なエリアである。NYでいう5番街付近。そこにあるだけでもすごいが、その庶民の味方のポップ
コーン屋へ、買い物帰りの有閑マダムが列を作っているというのは、再び私の認識を覆した。ひとつは、マダムもポップコーンがお好きなのね、ということと、ポップコーンは並んで買うものという新たな認識である。マダムのことは、ここではひとまずおいておき、このシカゴでのポップコーンは塩&溶かしバターだけではなく、様々な味が用意されている。カレー味、マカデミアンナッツ入り、ピーナツバターなど塩辛かったり、甘かったり。中でも素晴らしかったのが、キャラメル味。そう、あの「キャラメルコーン」のコンセプトの元祖(かもしれない)。味は、(トウハトさんのことは忘れて)古い表現ではあるが、本気でほっぺたが落ちるかと思うほど。キャッシャーの横でお姉さんが一人でつくっているのを見ていると、非常に簡単。普通通りにポップコーンを作り、そこへ明治キャラメルを溶かしたような色のキャラメルソースを加えざくざくと混ぜて出来上がり。そんなシンプルなのに、飽きることなくティッシュ箱1つ半くらいの大きさの袋に入ったポップコーンは軽く食べられてしまう。しかも、出来立てのあたたかいのを買う事ができ、カロリーを考えながらも、手がべたべたしてしまうのもかまわずにやめられない。たかがポップコーンなはずが、私はここでもはまってしまったのである。もう、映画館のポップコーンなんてポップコーンとは認めない。そう誓いながらも、ひたすら私はキャラメルコーンの元祖を食べ続けた。
こうして、私のシカゴとのスィートな時間は終わった。後に残ったものは体重増加という悲しい数字だけではある。が、私はシカゴを忘れない。シカゴよ、美味しかった。ありがとう。
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