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もくじ


アメリカ横断ドライブ編 (22) 〜 アメリカ横断ドライブを終えて 〜

アメリカ横断ドライブ編 (21) 〜 完結編 LA空港から帰国へ 〜

アメリカ横断ドライブ編 (20) ロスアンゼルス(LA)

アメリカ横断ドライブ編 (19) ラスベガス 〜 LA

アメリカ横断ドライブ編 (18) デスバレーからの脱出

アメリカ横断ドライブ編 (17) デスバレー

アメリカ横断ドライブ編 (16) グランドキャニオン 〜 ラスベガス

アメリカ横断ドライブ編 (15) コロラド 〜 モニュメントバレー

アメリカ横断ドライブ編 (14) コロラド・ロッキー

アメリカ横断ドライブ編 (13) "アメリカ最古のコミュニティ" タオス・プエブロを訪ねて

アメリカ横断ドライブ編 (12) サンタフェ

アメリカ横断ドライブ編 (11) エルパソ 〜 アルバカーキ

アメリカ横断ドライブ編 (10) サン・アントニオ 〜 エルパソ

アメリカ横断ドライブ編 (9) シュレンバーグ 〜 サン・アントニオ

アメリカ横断ドライブ編 (8) ヒューストン 〜 シュレンバーグ

アメリカ横断ドライブ編 (7) ニューオーリンズ 〜 ヒューストン

アメリカ横断ドライブ編 (6) パンサコーラ 〜 ニューオーリンズ

アメリカ横断ドライブ編 (5) ハーディーヴァイク 〜 パンサコーラ

アメリカ横断ドライブ編 (4) チャールストン 〜 ハーディ−ヴァイク

アメリカ旅行記 番外編 ニューヨーク

アメリカ横断ドライブ編 (3) ワシントン 〜 チャールストン

アメリカ横断ドライブ編 (2) リッチモンド 〜 ワシントン

アメリカ横断ドライブ編 (1) ニューヨーク 〜 リッチモンド

ワシントンD.C.

ボストン、マサチューセッツ州

ニューポート、ロードアイランド州

フィラデルフィア、ペンシルヴァニア州





アメリカ旅行記




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  • アメリカ旅行記 アメリカ横断ドライブ編 (21)
         〜 完結編 LA空港から帰国へ 〜
by Hironobu Hamada, 6.5.2001


*前回までのスト−リー

ニューヨークを8月19日に出発し、ロスに向かったアメリカ横断ドライブ。 デスバレーで車がオーバーヒートし、車の冷却システムが故障したために、 車はデスバレーであきらめざるを得なかったが、親切な人にパランプという デスバレーの隣町まで送ってもらった。パランプからはレンタカーで ラスベガスを経由し、9月6日の夜についにLAに到着した。9月8日の便で 一時帰国することになっていた私は、9月7日に一日LAを観光することが できた。


*9/8(Fri) LA空港から帰国へ

私の大陸横断アメリカドライブ旅行もついに終わりの時がきた。思えば長いようで 短い旅行だったが、私はある意味でラッキーだったと思う。いくつかのアクシデント にあったものの、結局無事にLAに到着することができたからである。しかしながら、 私一人ではおそらく不可能なことだっただろう。LAにたどり着くまでには様々な 人々の手助けがあった。特にデスバレーで私の車がオーバーヒートし、砂漠の ど真ん中で止まってしまった時に水を分けてくれ、最寄の町まで付き合ってくれた 二人組のアメリカ人には非常に感謝している。実際、アメリカではLAやニューヨーク などの場所を問わず、親切な人が多い気がする。もちろん、これは一般論で人にも よるが、私は今回の旅行を通じて"アメリカはヒューマニズムの国"、"ボランティア 精神の国"とよく言われることも納得できる気がした。

9月7日の夜は、サンタモニカのビーチでしばらく海を眺めていた後、私は ニューヨークで一緒だったTaiwanese(台湾系)の友人に電話をかけてみた。彼は、 ニューヨークのコロンビア大学の大学院での私の同期であり、インターナショナル ハウスという一種の寮で卒業まで一緒に住んでいた。彼とは同じ階だったことも あって、頻繁にニューヨークのダウンタウンなどへ一緒に遊びに行った仲だった。

彼は、Lee(リー)という名だが、卒業後仕事を見つけ現在LAに住んでいた。 リーはもともと日本文化にも興味を持っており、一時期私が教えていた日本語勉強 サークルにも出席していた。そういった事情もあってかたことの日本語を話し、 かなり親日的であった。私も少なからず彼の影響を受け、台湾では徴兵制があること、 またそれを終えない間は海外旅行にも行けないこと、島国であり、ほとんどの国 と国交がなく、国際社会で孤立した存在であること、また、総統選挙の時に 大陸(中国)からミサイルで威嚇攻撃を受けたことなどを聞き、私はかなり驚いた。

ニューヨーク時代も日本人や韓国人は遊びに夢中になる人が多い中、台湾人の彼は あまり遊ばず、一生懸命勉強していたことを覚えている。彼だけではなく、台湾、 中国人は一般的に資金に余裕がない人が多い。特に、中国人は奨学金で来ている 人がほとんどで、いったん故郷を離れたらほとんど2度と帰国しない、つまりは アメリカに永住する覚悟で来ているため、みんな必死で勉強していた。アメリカに 入国することが難しく、通貨の関係ですべてのものが割高になることもあって 彼らはあまりものも買わず、そのあたりが資金的に余裕があって、半分バケー ションで来る人も多い日本人や韓国人とは明らかな違いがあった。

私がリーに電話すると彼はたまたま部屋におり、一瞬驚いた様子だった。実はアメリカ を旅行中、私はこの時までリーに一度も電話をしていなかった。予定がどうなるか わからなかったからである。彼には失礼だが彼がLAにいることも忘れていた。 突然の電話に驚いたリーだったが、彼は私を部屋に遊びにくるように誘った。

そこで、私は彼のアパートを訪れることになった。彼はハリウッドから車で東に10分ほど の住宅街に住んでいたので、サンタモニカからは車で30分ほどだっただろうか。私たちは 約9ヶ月ぶりに再開した。

Hey, Hiro(私の名). How are you doing?
I'm fine. And you?

あいさつしながら、アメリカの習慣どおり握手を交わし、その後私たちは 彼のアパートで久しぶりに盛り上がった。私のアメリカ旅行の話、彼の仕事の話、 昔話、いろいろと話したが、特に、彼はガールフレンドと結婚したいが、相手が アメリカ人(白人)であるため間違いなく親に反対されるだろうという悩みを私に 話した。いろいろと話し込み、気が付けば夜中になっていたこともあって、 結局、私はそのまま彼のアパートに泊まった。

そして、夜が明けついに私の一時帰国する朝が来た。私はリーと別れ、LA空港に 向かい、出発の2時間ほど前に空港に到着した。私はレンタカーを返し、出発 カウンターでチェックインし、定刻どおりに飛行機に乗り込んだ。アメリカでの 旅行を思い出し、しばらく感慨にひたっていたが、昨夜あまり寝ていないことも あってすぐに眠くなり、私はそのまま眠ってしまった。

しばらくたって目がさめ、一瞬そこは日本かと思ったが、実は飛行機はまだ LA空港から出発していなかった。タイヤがいたんでいたためタイヤを交換し、また、 エンジンの調子が悪く、メンテナンスを行っているようであった。そして、すぐに アナウンスがあり、しばらく時間がかかるから全員飛行機から降りて空港で待つよう に指示された。

私は飛行機から降り、空港内のレストランでバドワイザーでも飲みながら待って いたが、そこに20代であろう日本人男性の二人組みが入ってきた。私と同じ便で帰国する 予定の旅行者だと思われたが、彼らはウェイトレスから話かけられてもほとんど英語が わからず、注文するだけでかなり苦労していた。ビールを頼みたいようだったが、英語では "ビィア"と発音するためどうしてもウェイトレスに通じなかった。私が変わりにオーダー してやろうと思って立ち上がりかけたとき、彼らはボディランゲッジを駆使して、やっとの ことでオーダーすることができた。ここまでは別に普通の光景だが、問題はその後である。 ウェイトレスはビールと引き換えに金を払うように言ったが、その金額も彼らは理解する ことができなかった。ウェイトレスは"シックス・ダラー"と何回か言ったが、3回目ぐらい でやっと理解することができ、日本人男性は$12を支払い、さらにチップだと言って、 $2を追加で支払っていた。

ウェイトレスはフレンドリーな笑みで"ありがとう"といって、チップを受け取ったが、 私はバドワイザーで$6は高いと思った。私も、同じバドワイザーを飲んでいたが、 ウェイトレスが持ってきたときに支払いを要求されることもなかった。

しばらくして、私がチェックを同じウェイトレスに頼むと私の場合はバドワイザーは$3に なっていた。たいしたことではないが、日本人男性が二人分で$6でいいものを倍の $12を支払って、さらにチップを払い忘れたといって追加でチップを支払い、ウェイトレス がフレンドリーな表情で"ありがとう"と言っていた光景がかなりこっけいに思えた。 しかも、その二人組みは実際の値段を全く知らないのである。

これは、飛躍かもしれないが、日本の外務省が国民の税金から湾岸戦争時にアメリカに 約1兆円を支払い、その他外国にODAという名目で莫大な資金を払っていることが、LA空港での ささいな"バドワイザーの出来事"の延長線上にあるような気がした。つまりは、アメリカや 他の諸外国に日本人が気がつかないところでうまく必要以上の金を支払わされていると。

この話は一つのエピソードだが、その後、私はレストランを出て、スターバックスでコーヒー を飲んでいたが、一向に出発のアナウンスがなかった。私は、まだしばらくかかるだろうと 思ってゆっくりと新聞でも読み、香港から来て、これからニューヨークに向かうというある 中国系キャリアウーマンと話していた。彼女はITビジネスにたずさわっており、広東語、 北京語、台湾語、英語の4ヶ国語が話せることを私に話した。知性あふれ、かなりの美人だった こともあって、私は一瞬これはハッピーな"出会い"だと思って期待し、私たちはそれから 数十分にわたって話し込んでいた。

が、しかしそのときである。あるアメリカンガイ(アメリカ人男性)がプレートを持ちながら、 私の名前を呼びながら歩いてくるではないか!彼は"ミスターハマダ、ミスターハマダ"と何回 か叫びながらこちらに歩いてきた。私は、その時にやっと現実に戻り、飛行機を待っていた ことを思い出した。実はこのとき私以外はすでに飛行機に乗り込み、出発準備が整っていた のである。私は、あわてて彼に返事をすると、彼も大慌てでトランシーバーに向かって、 "見つけたから、ゲートを閉じるな。出発するな!"といったことを叫んでいた。先ほどまで 話し込んでいたキュートな中国系キャリアウーマンに"バイバイ"を言い、私は大慌てで走り ながらゲートに向かい、飛行機に乗ることができた。飛行機に乗ると、そこには疲れきった 旅行者の冷たい視線があった。

しかしながら、間一髪で飛行機に乗ることができ、無事帰国できることになった。

私が、想像するに飛行機はこのときゲートが閉じられようとしていたものと思われる。あと、 数分遅かったら私はLA空港に取り残されていただろう。しかしながら、LA空港に取り残されて いたらあのキュートな中国系女性の名前を聞き、連絡先を聞くことができただろう。あまりの 突然で別れたために名前すら聞くことができなかった。"間一髪で間に合ってしまったこと"は 私にとっては運命の分かれ目だった。

しばらくして、飛行機は離陸し、ついにアメリカを離れ、帰国の途についたが、私は LA空港での彼女のことがしばらく頭から離れなかった。おそらくもう2度と会うことがない であろうキュートな女性とのほんのつかの間の楽しいひと時を思い出しながら、飛行機に 間に合ってしまったことをひそかに後悔していた。

完結!


*編集後記

みなさん、こんにちわ。いかがおすごしでしょうか。私のアメリカ旅行記もついに 完結を迎えました。私の下手な文章に最後まで付き合っていただいた読者の皆様、 本当にありがとうございます。アメリカ旅行記のプランをたて始めたのが今から 約1年前で、その頃にメルマガもスタートしました。それからアメリカ旅行記は 約1年間続いたわけですが、私の旅行記を読者の皆様が少しでもエンジョイしながら 読んでいただいたなら、私にとっても光栄です。当メルマガは次号の総集編で 最終回を迎えますが、その前にせっかくですので、ぜひアンケートにお答えください。 アンケートは、以下をクリックしてください。

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それでは、次号まで。
Take care!
Hiro





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